先日から、立続けに比叡山延暦寺に行く機会があり、毎週のように出向いています。
高い山から見下ろす場所、凛とした空気の中に身を置くと、雑多な日常に振り回されている自分を滑稽に思ったりするのです。
ヲ
不思議なもので、年々父に似てくる自分が可笑しくてなりません。
古いものを集めるのが好きな父に反発して、真新しい洋食器に凝ってみたり、『書』の好きな父が筆や硯を中国から買って来た事に反発して、万年筆を持ち歩いたり。
仏教徒の父がおへんろさん擬の事をする事に反発して、教会に通ってみたり・・・
兎に角、父に反発する事で、私は自我を守っているつもりでいたような子供でした。
それがどうでしょう。
古い家を購入し、古い家具を再生する事に時間を割き、古陶器を学ぶ為に、骨董屋に足を運ぶ。
手首には数珠がぶら下がり、家のそこかしこには祈祷済みの護符が張り付けられているのです。
そして、般若心経を空で読める私は、やはり父の娘なのだと、心底実感させられるのです。
ヲ
何かを信じる、ということは、簡単なようで実はとても難しい事です。
特に、眼に見えぬものを信じる事は、これまで自らを築き上げて来たものを覆す程の力が必要なのかもしれません。
ただ、信じる事がどれ程大切で、その事によって心が穏やかになれるのであれば、これほど素晴らしい事はないのだ、と改めて思い始めました。
左手首にぶら下がった「生命の木」でできた腕輪数珠。
玄関とアトリエの窓上に張り付けられた護符。
比叡山の静寂な空気に身をさらし、自分を律してみようと思ったのです。
自分を大切にしよう、と思っていた頃を、もう一度取り戻してみようと。
誰を信じるのか。
何を信じるのか。
自分を信じられる人程、強い人はいない、と私は思うのです。